京都でヨガと北欧暮らし

アシュタンガヨガ1週間サボらずに練習しました。

この1週間、練習をサボらずにムーンディ(休息日)まで突っ走ってみた。
最初は簡単だと思った。
途中からしんどくなった
最終日はこんなものかと思った。

 

1週間を通して感じたこと。
物事への期待。食への依存。
とにかく自分!自分を見てほしい!執着。
細かいことを調整することのめんとくさがり。
の割に目立ちたいから新しい派手な物好きな性格。

ずっと思っていた自分の怠惰性。怠け癖にも向き合ってみた。
あえて朝起きてからすぐに練習に行かずに1時間ゆっくりする時間を作ってみた(もちろん目を覚ますためでもあるが)
さぁここで出るわ出るわ。感情という名のエゴ。ヨガではアハンカーラというのかな。
行きたくない。昨日行ったから今日は休んでもいいんじゃないか。お腹空いた。こんなことしてて何になるの。意味ない。今日もどうせ上手く行かない。明日行けばいい。などなど。たくさん出てきたが
それを7日間無視した。そして練習に行った。これがこの1週間一番感動したことだ。
それと同時に今までどんなにこの感情という名の暴れ馬に自分自身の操縦を任せていたか少し愕然とした。

新しいアサナ、スプタクルマーサナももらって。ブジャビターサナも完成して。シルシャーサナも徐々にキープできるようになってきた。
それと同時に自分の癖からくる体の痛みも出てきた。
この1週間。やっと1週間のようであり、もう1週間のようでもある。
明後日からまた練習が始まるが、正直自分自身を知る。自分に向き合うことがもう笑けるくらい嫌になってきた。

あぁヨガなんだなぁ。わたしヨガやってるんだなぁ。つくづく感じる。

 

書写人バートルビーを読んで

書写人として法律事務所で働く男、バートルビー

頼まれた仕事を拒否し続け、事務所に置き去りにされる。その後、刑務所に入れられるが、食べることを拒否し餓死する男の話。

文中にバートルビーの感情の描写は一切なく、淡々と拒否し続けるバートルビーしか映されていない。「そうしない方が好ましいのですが。」と言い続ける彼の頭の中は一体どうなっているのだろう。

 

語り手はバートルビーの上司である。法律事務所を小規模ながら営む平凡な英国紳士。

彼は私達読み手と同じくバートルビーの不可解な言動や行動に頭を悩ませる。

すぐに怒ったり、物忘れがひどかったり、金遣いが荒い等の難のある人物はたまにいるが、バートルビーが事務所で働き始めた最初の頃、彼はバートルビーが一種のそのような人間だと解釈していた。しかしながら行動が奇妙すぎる、そしてその意図も分からない。しかもこれらの行動、言動には一切の悪びれた様子や人を貶めてやろうといった悪意も感じられない。徐々に彼はバートルビーを普通の枠の中の逸脱した人物ではなく、普通の枠から逸脱したなにかだと認識した。そこからはまるで動物を諭すように慈愛をもってバートルビーに”接触”する様子が興味深かった。

 

彼はバートルビーが普通ではないと認識した後、普通ではなくなったのには何か原因があるのではとバートルビーを問い詰める。もちろんバートルビーにとっては自分の過去について話すのは「好ましくない」ため何も語らない。

 

原因が分からないのだ。そもそも原因があるのかすら分からない。知る由もない。バートルビーは生まれながらにしてそうだったのか、それとも何かきっかけがあってそうなったのか。頭に疾患があるのか、健康なのか、本当にジンジャークッキーしか食べないのか。ジンジャークッキーしか食べない理由は何なのか。何故書写人になったのか、家族は。どこから来たのか。

 

 

何故バートルビーが全てを拒否するのか。

自分のことをあまり話さない人間だからだとしたらどうだろう。過去に何かトラウマがあってそこから自分について話さなくなった。精神疾患も患っていて、普通の人が普通にできることができない。理由付けが明確になる。誰しもが納得できる。

欲がない人間だからだとしたらどうか。是非ともこの理由では議論したくない。何故ならこれこそバートルビーの証言なしには決定的な結論に至らないからだ。

人間には必ず欲求があるはずである。マズローが言うところの成長欲求、関係欲求までは取り除けるとして、人間として機能を維持するために生理的な欲求を司る生存欲求はどの人間にも必要だ。

現にジンジャークッキーしか食べていなかったバートルビーとも言えど、それは食べたいと思う食欲はあったわけであったのだ。そこまで生き永らえたということは生存欲求はあったわけである。

また欲求がない人間は「したい」という欲もなければ「したくない」という欲もないはずである。バートルビーはそれを「したい」とは思わないが、「したくない」とは思うのである。書士はしたいが、使いには行きたくない。ジンジャークッキーは食べたいが、刑務所内の弁当は食べたくない。ここの線引きは一体どこなのだ。

 

私がバートルビーを形容するとしたら修行僧だ。食べることを拒否し餓死するのは殺生を良しとしないジャイナ教の最も善い死に方とされているし。自我を消滅させていく仏教僧の生き方とも似ている。

バートルビーが実は熱心な仏教徒であった描写があってくれたらいいのにと思う。だが現にそのような描写はないからこれは空想にしかすぎない。

信念を持たずにバートルビーは悟りの境地に達し死んでいったのか。信念を持たずしてそのようなことが為されるのか。

 

いずれにせよ、全て仮説にすぎない。意図を汲み取れない人間がこんなにもやっかいだとは。

 

 

ああ!バートルビー!ああ!人間!

 

 

 

調子悪い時は今がそういう時期なだけ

やる気でない時や、調子が悪い時、何をやってもうまくいかないときって

今がたまたまそういう時期なだけって受け入れちゃうと楽になります。

 

私は今、とても食欲が出ている時期で、毎日たくさん食べて、体が重くて物事に対してやる気がでないですが、

今がたまたまそういう時期なだけと受け入れてみると楽になりました。

 

よく考えてみたら、人生、ずっと自分の思い通りにはならないです。

晴れの日もあれば、曇りの日もあって、雨の日がある。

 

恋人がいる時もあれば、恋人がいないときもある。

仕事がうまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。

 

でも自分の思い通りにいかせようとしたら苦しみが生じる。

 

自分がコントロールできることなんてないので、うまくいかないときこそなんとかしようとせずに大きい力に身を任せてみればよろしい。

 

ゆらゆらと風のように揺れるだけ。

 

なんとかしようとしてもそれはそれで構わない。

握りしめているものを手放すと色々楽になれます。

 

 

そんなわたしは田舎で自給自足か

インドのマイソールでアシュラムに入って修行がしたいと思ってます。

 

いつ叶うのかわくわく

 

ようこ

 

 

ヨガしたくないとき

ヨガって毎日した方がいいのはわかってるけど、

したくないときってありますよね。

 

めんどくさいし、そんなに長い時間集中できないし、

ヨガマットの上に立つのすらやだ。

 

 

そんな時に頑張ってとりあえずマットの上に立つのがいいのか

それともやめといた方がいいのか

 

どっちがいいんでしょうー

 

 

習慣化するのが一番ですよね。

 

とりあえず、毎日ヨガをするために習慣化をがんばってみます。

消費社会の良しあし

 

買い物ってあなたにとって何ですか?

 

それはある人にとってはストレス解消するもの

それはある人にとってはとてもわくわくするもの

ある人にとってはめんどくさいもの

またある人にとっては人生そのもの。

 

 

色々な定義があると思いますが

 

 

私は生きていくために消費をします。

 

食べるものを買わないと餓死するし、

服を買わないと寒いし

物がないと毎日がとてもとても不便になります

 

スーパーに行けば食料があるし、ショッピングモールにいけば服が買えるし、

100均にいけば必要なものが安価で買えるし、とても便利な社会だなあと思います。

それに、消費社会があることで分業体制がしかれ個々人がそれぞれ好きなことをできますよね。

 

本当にありがたいです。

 

 

ですが、いつでもどこでも望むものが手に入れられるのは便利な一方で少し狂気じみているなあと感じます。

 

ショッピングモールや繁華街に行くと、

たくさんのものだけじゃなくて、

何か新しい物はないかと目の焦点の定まらない人や

必要ないのに売りつけてこようとする広告や

必要ないものを買おうと必死に働いている人達

狭いところに閉じ込められて商品にされてる動物達や

 

その他にも色々なものが目につきます。

 

そういう場所に行くと、もちろん商品のきらびやかさに心動かされますが、

同時に、人間は本当に満足しないんだなあって少し悲しみもあったり。

 

欲を満たすためだけに買うとどこかしらにひずみが出てしまいます。

それは自分自身であったり、他の人であったり、他の動物であったり。

 

 

 

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物を買うのってすごく簡単な行為ですが、

その裏に隠されているものもしっかり見て、

理解した上で消費したいなと常日頃から感じています。

 

 

消費社会はとても優れたシステムだと思うし、

きっとこれからも続いていくと思います。

いいところを抜き取って、悪いところを改善していければいいなと思います。

 

 

 

 

物を買う時やサービスを使うときはとても慎重に吟味するようにして、

本当に必要なものだけを買ってその消費を命につなげていきたいなあ。

 

 

 

ようこ

 

 

 

 

 

 

ヨガをする理由

近頃たくさんの人がヨガをしているし、

ヨガがとても世の中に浸透しているなあと思います。

 

石川県の割と田舎なヨガスタジオで働いていますが、

そんな田舎でも、たくさんの生徒さん達がいて、皆さんいろいろな理由でヨガをしているんだなと日々感じています。

 

たくさんのヨギーニ達を観察していて思ったのは、

 

ヨガは○○だ。

ヨガはこうでなければいけない。

わたしがヨガをする理由はもっと高尚なんだ。

 

そんな風にわたしは今まで思っていたんだなと思考の癖を見つけました。

 

わたしが働いているスタジオにはダイエット目的で来られる方がとても多いです。

 

ヨガは外見ではなく、内側を観察するためにするものだと思っていました。

ヨガをしてダイエットし、綺麗になる。

痩せて可愛い洋服を着たい。

 

そういう風な動機でヨガをするのは正直とてもわたしは共感できなくて、

働き始めて少し戸惑いました。

 

わたしはここでヨガを教えていいのかななんて考える時間が増え、少し辛くなりました。

 

そこで一度自分に立ち返ってみて、

”私が”ヨガをする理由について考えてみました。

 

そこで出た答えがこれでした。

 

「自分が一番心地よいと思える状態に戻りたいし、そこに居続けたいからヨガをする。」

 

わたしは、心も体も健康であり続けたいからヨガをするんですよね、きっと。

 

いうなれば、ヨガをすることで今よりも快適でいたい。

 

 

そこで周りを見渡してみました。

痩せたい。痩せて可愛くなりたい。運動して汗をかきたい。運動不足を解消したい。

 

これらの理由も今より快適な状態になりたいってことですよね。

 

今が超快適るんるん生活☆だったら、変える必要ないけれど、

今この現状、少し変えたいなって思っている。だからヨガをする。

 

私が不純だと思っていた動機。生徒さん達がヨガをする理由も

わたしがヨガをする理由と同じなんですよね。

 

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日頃生活していると、「わたしは特別なんだ。」って思ってしまう機会って多いと思います。

 

私はかわいそう。

私は頭がいい。

私はあの人とは違う

私はここに所属するべき人間じゃない。

 

 

でも基本的に皆同じです。

 

悔しいかもしれないけれど、はたから見たら、

あなたは周りにいる人にとても似ています。

 

 

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自分は特別だ。

 

この執着もすこしずつ手放していきたいなと思いました。

 

 

 

ようこ